我も人なり彼も人なり
この地上ではだれもがだれかをちょっとずつ誤解したり,されたりしながら生きているのかもしれない
出典: カラフル (文春文庫) , 171ページ より
私の大好きな小説の一節
とても印象深く、深く心に刻まれた一節である
人は誰しもいい面 悪い面 (善と悪)があると思う
例えば
私が誰かのいい面のAという場面を目撃した場合、
もちろんその人に対する印象は良くなる
しかしもし私の友達がその誰かの悪い面であるBという面を目撃してしまった場合、もちろん印象は悪へと傾く
そして私が見た場面でAが増えるほどその人に好意を抱く
だけどたまたまBばかりをみてしまっている友達はその誰かを好きになることはないだろう
もちろん、AとBの両面を持っているはずならこんな風に片方だけがAでもう片方ずっとBなんてことは滅多にないだろう
でも、ありえない話ではないはず
それに、近しい関係ならもっと多く接するためにABが等しいくらい垣間見えることもあると思うが、例えばあまり関わりのない人間であったら
例えばご近所さんであったり、または職場で交わりの少ない人であったりしたら、どうだろう
同じ一人の人に対する印象は、タイミングによって想像するよりはるかに変わるのではないだろうか
わかってはいても、好きになれない
みんな表裏一体であって、自分が好いていないあの人にも必ずいい面はある
わかってはいる、でも…
それは人間の当然の心理だと思う
私もその人の一部分だけなはずだと、苦手な人に対して何度も良いところをみようとしたことはある
だけど、苦手なものは苦手なのだ 理由なんかわからない
私はそれはそれでいいと思っている それが、今の自分なんだから
ただ、もったいないことではあるなと思う
私がココ最近苦手としている人、(この人は役職がついている、上に立つ人物)
いつも自分の所属の人達を贔屓して、外部の私たちには冷遇している節がある人が、
自分の所属の直属の部下にきちっとダメなものはだめと伝えているところに遭遇した
たまたま、その場面に出くわした
あぁ、まただ 私は思う
やっぱり、表裏一体なんだなと
そして、『カラフル』のあの一節を思い出した
人ってやっぱり誤解をして、されてそうやって少しずつズレて生きているんだなぁと
思い返せばわかっていたことではあった
だけど、何度も何度もわすれて、そしてまたこうやって気付く
どうしてこんなにも忘れてしまうのだろう
苦手な人物であるのには変わりはないはずなのに、何故か涙が出そうになった
それは、1番上の立場で不器用なりに懸命に全うしようとしている姿を見てしまったからなのかそれとも、自分自身に対する言葉には出来ない思いからなのか
これを書きながらも明確な答えは出ない